愛と哀しみのコッヘル 第1章
これから話すのは私がまだ若かった頃の出来事である。
当時の私は自転車が大好きで休みの日には必ずと言っていいほど近隣の山々の林道を走り回っていた。
特に京都の北山はお気に入りで、地図に「峠」の文字を見つけては踏破して自己満足に耽っていたのである。
峠を制覇すると儀式が待っている。そこで食事をし、そしてコーヒーを飲むこと。
食事と言っても高価なものではなく、カップめんとおにぎりやインスタントラーメン程度のものなのだが、
山で食べるとその美味しさは五割り増しになる為、これがやめられない。
従ってサイクリングには常にコンロとコッヘルが必需品だ。
その頃使っていたコンロはコール○ン社のピークワン、初期の緑色ものでホワイトガソリンを燃料とするが
プレヒートの必要がない優秀なコンロである。
コッヘルはエ○ニュー社のステンレス製の丸型で、2つあるはずの取っ手が片方しかない不良品なのだが
諸事情によりそのまま使っている。
ある年の秋、その日もいつものように険しい山道を自転車を担いで、某峠に到達。
あたりは静かで澄んだ空気と紅葉が美しい。 少しの間澄んだ空気で深呼吸し荒れた息を整えた後、恒例
の儀式が始まる。
「さぁ、腹が減ったぜメシでも食うか」、おもむろに準備に取り掛かる。
コンロに点火し、コッヘルに水を注いで火にかける。
今回の食事はチキンラーメン、温泉卵2個入りでトッピングは刻んだ乾燥ネギだ。
これぞフルスペック、チキンラーメンの皇帝と呼ぶべき豪華版である。
そしてサイドメニューにはサンマの缶詰(蒲焼)、何と豪勢なことか。
このようなシチュエーションでこれほどの食事が出来るとは至福の極みというほかないだろう。
やがてお湯は沸き、チキンラーメンと温泉卵2つが鎮座するコッヘルに熱湯を注ぎ込む。
ここで3分間待つのが世界標準規格だが、屋外で外気温は低めということを考慮し3分45秒待つことに
する。
常に完璧を追及する私は妥協を許さない。 人は私を"完璧の母"と呼ぶ。
割り箸を用意し、サンマの缶詰を開けると心は既にミシュラン三ツ星レストラン状態。
ストップウォッチを片手に誤差1/100秒以内の正確さでコンロの火を止めたその時である。
近くの茂みで"ポキッ"と枯れ枝の折れる音とそれに続く"ガサガサ"という気配。
「フォースを感じる・・・ 強いフォースを感じる・・・」 「ハッ」として身構える私。
静寂を破り茂みから出てきたのは体長3mはあろうかという超大型ツキノワグマ。
ツキノワグマが何故3mもあるかというのはどうでもいいので気にしてはいけない。
怪しく輝くその眼は明らかに私のチキンラーメンを狙っている。
「マズい、チキンラーメンが・・・」 私はとっさに割り箸を上段に構え、「スー、ハー」とダース・ベイダー
の呼吸音で威嚇する。 が、敵は全くひるむ様子が無い。
懸命に威嚇する私を無視するかのように、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
「しまった、ダースベイダーを知らないのか・・・」 なすすべ無くジリジリと後退する私。
怯える私など目もくれず敵は刻み乾燥ネギのトッピング付き温泉卵2個入りチキンラーメンのコッヘルに手を
かけた。
だが状況は私に有利である、なぜならば割り箸は私の手中にあるのだから。
これが無くてはラーメンを食うことは出来ない。「どうだ、まいったか。」
ところが超巨大ツキノワグマは2本の長いツメを器用に使うと難なく私のチキンラーメンを食べ始めた。
「ぬぉっ、こ、こいつ、できる・・・」 出来立てのチキンラーメンを旨そうにすするツキノワグマ。
争いは望まぬ私ではあるが、こうなるともはや戦わざるをえない。 「どうやら私を本気で怒らせてしま
ったようだな。」
必殺技、"わきの下こちょこちょ"を見せる時が来たようだ。 (注:私は常に正攻法で戦う)
わきの下に狙いを定めるべく、静かに敵の背後へと回りこむ。
間合いを計り、「よし、今だっ!」っと攻撃に移るその瞬間、信じられない光景が私の目に飛び込む。
何と、ヤツは温泉卵の1つを潰したのである。 驚愕のあまり背筋が凍る。
卵を2つ入れたラーメンを食べるとき、初めはそのままプレーンで食べる。半分食べたところで卵を1つ
だけ潰してとろけた卵をめんに絡めて食べる。そして最後に一口残しためんと残った卵を一緒につるんと
頂く。
こうすることにより1杯で3度の美味しさに恍惚となるのだ。
これが、ラーメンを極めた者だけに許された秘技 "卵1つだけ潰しの技" である。
私もこの奥義を会得する為、人生の半分を厳しい修行に費やしたことを忘れはしない。
「ま、まさか、あの技を使うとは・・・、しかも割り箸も使わずに・・・」
敵は相当な使い手なのだ。 とても私の手に負える相手ではない。
私は力無くへなへなとその場に座り込んでしまった。 嗚咽が漏れる「嗚呼・・・、もう、どうすることも
できないのか・・・」
悠々とチキンラーメンすすりながら、サンマの缶詰にまで手を出す阿修羅の如き蛮行をただ呆然と見て
いるしかない絶望と無力感。 ハリセンも赤ピコハンマーも所持していない今もう立ち向かう術は無い。
やがて敵は最後の一口を残った卵とともにつるんと頂くというフィニッシュまで正確にキメてチキンラー
メンを食べ終えた。
容赦なくスープを飲み干し、更にはコッヘル内部を長い舌で舐めまわして少し残った温泉卵の白身の欠片
まで奪い取り、満足げに「ゲップ!」を一度してから楊枝をくわえ「シー、シー」と音を立てながら悠然
と元来た茂みに戻って行くツキノワグマ。
茂みに消える瞬間、こちらに一瞥をくれるとその勝ち誇った眼には「ゴミはちゃんと片付けて帰れや」と。
なんという屈辱、人のラーメンを食べておきながら後片付けまで人に任せるというのか。
せめて目の前に置いてあるロー○ンのコンビニ袋に空き缶を入れることすらしないというのか。
悔しさのあまり胸をかきむしり、声ともならない叫び声をあげてその場に突っ伏して私は泣いた。
ただ大声で泣いた。
どれくらい経ったであろうか、気が付けば陽は傾き始めている。静けさの戻った空気はやや冷えてきた、
そろそろ帰らねば。
残されたコッヘルは奴のヨダレでベトベトになり、スープの最後の一滴まで奪われた現実がそこにある。
それを手に取るや再び大粒の涙がとめどなく溢れ出てくる。
ティッシュは勿体無いのでトイレットペーパーで涙を拭きながら後片付けを済ませ、帰路に着く頃にはあ
たりはすっかり薄暗くなっていた。
重い足取りで家にたどり着くと私はふらふらと台所へ向かい無言でコッヘルを洗う。
台所用の中性洗剤でしっかり洗い終えたコッヘルを見ていると再びあの悪夢の光景が脳裏をよぎる。
怒りに体が震える。 気が付くと手にはハンマーを握っていた。
「こんなコッヘル叩き潰してやるっ!」 ハンマーを振り上げる・・・ と、そこで我に返った。
「いや、このコッヘルは何も悪くない、不良品ではあるが何も悪くないんだ。」
「悪いのは私自身なのだ、フォースはおろかメラの呪文すら使えない私の弱さが招いた結果なのだ。」
あの出来事以来、私はあらゆる修行に身を投じる日々を過ごすことになる。
禅を組み、滝に打たれ、般若心経を唱えた。
ある時は菩提樹の下でお釈迦様に教えを乞い、またある時はシヴァ神と食事を共にし、更にはホルス神と
強化合宿をこなす。
やがてゴリアテに囲碁で勝利し、メドゥーサをにらめっこで打ち負かす力をも身に着けるに至ったがまだ
充分ではない。
なにしろ敵はあのツキノワグマ、割り箸を使わずチキンラーメンを食べる恐ろしい相手である。
たとえラインの川底に沈む黄金を鍛えようとも、たとえジークフリートとワルキューレが束になって挑も
うとも敵うような相手ではない。
更なる修行が必要である。
一日三杯のコーヒーを二杯に減らす苦行に耐える日々が続いたある日のこと遂に私は覚醒したのである。
そう、私はあることに気付いたのだ。
あのツキノワグマは2本のツメを箸にしてラーメンを食べていた。
あいつのツメはスプーンにはなっていなかった。
「あっ! そうか、それならカレーにすればいい、カレーならスプーンでないと食えない。」
素晴らしい。 自分の叡智にめまいがする。 しばしナルシシズムに浸ってしまうぞ、おい。
そしてレトルトパックのご飯とカレーを温めるには丸型ではなく角型のコッヘルがより便利だという考え
に辿り着くのはもはや必然。大自然の摂理にはただただ驚かされる。
かくして、なけなしの小遣いを握り締めて大阪駅前の石○スポーツでモ○タの角型コッヘルを購入した。
焦げ付き防止加工が施された素晴らしいコッヘルだ。 エクスカリバーよりも遥かに強力であろう。
勿論、角型であるが故にカレーだけでなくラーメン(特に袋めん)にも有効であることは言うまでも無い。
以来、私はこのコッヘルと共にある。
コンロがピークワン、GI、MSRと移り変わっても、いつもこのコッヘルが私の傍にある。
ジェームズ・ボンドの言葉を借りよう。 コッヘルより愛をこめて。 コッヘルは永遠に。
もうラーメンを奪われる恐怖におののくことはない。 私はもう昔の私ではないのだから。
私は無敵なのだ。
『角型コッヘルと共にあらんことを。』 「May the Square Kocher be with you.」